民報サロン寄稿文 母の戦争体験から

 

 

暑い夏のある日、母は私に夕涼みしようと縁台に座り、庭木に目をやりながら、五十年前の熱い八月を回想して戦争体験を語ってくれた。

 母は兄弟姉妹が八人おり、第二次世界大戦によって、二人の兄と一人の義九を亡くした。

 「兄たちが生きていてくれたら…」 と、両親と兄の子供、家族たちの悲しい思い出は時間が過ぎゆく中、深い祈りに似た形で今もなお生きつづけている。

 昭和二十年八月十五日、この日も太陽が厳しく照りつける暑い一日だったという。正午になると、当時十入歳になる母は家族と共にラジオの前に」止った。時にジィーと雑音が入った数分間のことは、貌在も母の脳裏にまざまざと刻み込まれている。それは、あの歴史的な″玉音放送″ である。

 「朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し…朕は時運の趨(おもむ)く所堪え難きを堪え忍び難きを忍び以て万世の為に太平を開かむと欲す…」。

その日、家族皆でこれからの生活について話し合ったという。

 戦争が終結して、出郁兵上が次々と帰ってきた。家族の帰りを近隣の方たちが喜びで迎える中、母の兄たちは待てど暮らせど帰ることはなかった。長兄は満州で、義兄は支那で、二兄は硫黄島で戦死したのである。その後、戦死公報が入り、遺骨を受け取りに行くことになった。

 祖父は気骨のある明治気質のため厳格で、町のために心血をそそいだ人であった。私は幼いころ、そんな祖父に対し尊敬の念を抱いていた。

 祖父は遺骨の迎えに、祖母へ「お前行ってこい」と送り出した。家族は門口に立ち、その帰りをじっと待っていた。奴道の向こうに、お店のそばを歩いてくる、遺骨を抱いた祖母の姿が見えてきた時、母は「父ちゃん!帰ってきたよ‥‥」と大声で叫んだ。家の中からは「ん−」と声があった。

 遺骨になって帰ってくる兄を待つ祖父は一人納戸部屋に入り、洒を飲んでいたのである。それ以上の言葉も、それ以下の言葉もなかったに違いない。祖父のあまりの痛こくのはげしさを察する母は「父ちゃんは、酒を飲まなければ息子を迎えられなかったんだろうなあ」 と、涙ながらに語った。

 幼いころの私の知る祖父であれば、襟を止し息子を迎えに行ったのではなかろうか。しかし、その再会は人目を忍び恐らく背中を丸めてチョビリチョビリと酒を飲むことで、深い悲しみに耐えるしかなかったのだろう。そんな祖父の姿を思えば、胸が熱くなる。

この年に亡くなった世の兄たちは平成六年、五十回忌を迎えた。

 戦後生まれの私は戦死された方をじかに知る由もないが、いろいろな人たちから話を聞くことによって、歴史の惨事を歴史から学ぶことができよう。今世紀も残すところわずかとなった。戦争はさまざまなところで絶えず繰りかえされてきた。戦争は戦争を呼び起こすのだろうか。最も悲惨な第二次世界大戦では、地球上の数百万の人間がこの牡を去り、そして五十年を経た今、遺族の方々も年老いた。

 いつの時代になっても、いかなる戦争においても、その戦争の在り方を問ういろいろな議論があるが、あとには悲しみだけが残る。アメリカの学生からパールハーバーの話をされて、日本の学生がポカソとする世代に生まれた私は、半世紀が過ぎたこの夏、位の戦争体験を知ることによって、これまで抱いていた歴史認識が新たになった。二十一世紀に生きる私は、五十年前の戦争がさまざまな悲しみだけを残していったという事実を思い起こしながら、これからも八月には目を閉じて、手を合わせていきたいと思う。

 

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