民報サロン寄稿文 藤枝先生に学ぶ

 

 

 幼いころ私は、大海が広がる砂場でよく遊んだ。防波堤越しに、断崖(だんがい)絶壁に打ちあたる波しぶきのその雄大な姿を理由(わけ)もなく、飽きることなく眺めていた。

明治三十三年十一月十七日、商船学佼(現東京商船大学) の練習船「月島丸」が台風に遭遇して駿河湾頭で遭難し、練習生七十九人を含む全乗組員百二十二人が行方不明となる″大海難事件”があったということを知ったのは、十年も前の学生時代の初枇であった。

 全国から燃ゆる大志を抱いた若者が「月島丸」 に集うたその時代は、日活戦争終結後であり、国運勃興(ぼっこう) の最盛期であった。東京商船大学でもこの件を教育現場に生かすべく資料舘内に特別室を設け、また、高等海難審判庁長官を務められた藤枝盈(みつる) 先生が代表世話人となって「月島丸を偲(しの)ぶ会」がつくられていた。

親せきの方からお誘いをいただいて、東京商船大学での「月島丸を偲ぶ会」へ出席する機会に恵まれた。しかし、その時は、ただ日本の国力興隆時代の船舶遭難事故としてしか据えていなかった。

 時を経てこの九月、藤技先生に再会する楼会を得ることができたのである。藤枝先生は現在、「月島丸」海難の再認識を通して、故郷の遺族の方々のもとに、殉難諸志の供養をされているのであった。

 この「月島丸 L  で航海訓練中、不幸にも弱冠二十四哉で海へ潰(つ) いえた、いわき市遠野町削身の学生櫛引勝次郎氏の供養のため故郷の遠野町を来訪されたのである。私は、藤枝先生の律義な熱意に満ちた人柄を識(し) り、深い感銘を受けた。

 櫛出家の方とご一緒に、遠野町西光寺を訪ねた。入り口正面の小さな石段を上ると、墓碑が建立されていた。墓碑録は、犬養毅元首相の纂額(てんがく) であった。この方の筆になるのは、柳田氏の伯父の赤坂亀次郎氏が、福島県選凱の国会議員であり、同じく机を並べて福沢諭吉の門下で学んだよしみであろう。漢文(せんぶん) は、いわき市が生んだ漢詩の権威老、大須賀次郎(箔軒) によるものである。

魄兮何帰 風怒海立

魂兮何之 天高雲糸

 「塊(はく) やいづくにか帰る、風怒り海立つ、魂(こん) やいづくにかえゆく、天 高く雲浬(しめ) る」櫛田勝次郎氏の御魂(みたま)だけを悼んだ働笑(どうこく) の漢詩ではなく、わだつみへささげた鏡魂の漢詩でもあるという。郷土に生きる私はこの石碑から、郷土史における歴史的意義の深さを感じた。

 「彼らの大志を、今の若者に伝えたい。本に託し、後世に残したいのです。彼らの死は、国家的損失であった…。 私がやらなければと、ポツリポツリ語る。眼鏡をかけずに手帳に目を通され、まったく年齢を感じさせなかった。

 日ごろ、ある枠の中だけで生きる私などは、兜生のそばにいると、心の奥深さを感じ、ずっと自然体になれるのであった。後世へ伝承する、九十五歳の先生がおっしゃられる「若者」 とは、世代を問わず、すべての人たちを指しているかのように感じられた。

先生は「夢と希望に満ちて、気迫、気合いを持って生きよ」 と語られた。

 私は若者の一人として ″一度の人生いかに生きるか、何にぶつけるか!”と考えないではいられない。 「常磐線は初めてです」 と話され、かくしやくした足取りで東京への特急に乗られた姿を思い浮かべながら、藤技先生の思いが「本」 に託され、永久未来へ語り継がれることを、心より念願する次第である。

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